エゴン・シーレ|アカデミーを拒絶した強烈な変人画家

エゴン・シーレ 芸術家紹介

エゴン・シーレのプロフィール

出典:Wikipedia

名前 エゴン・シーレ(Egon Schiele)
国籍 オーストリア
生誕 1890年6月12日
死没 1918年10月31日(享年28)

エゴン・シーレの生涯

シーレはオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン近郊に生まれ、初等教育を受ける中で美術教師からその才能を見出されます。教師から認められたこと、シーレが15歳の時に病死した父に代わり彼を引き取った叔父の理解もあって、彼はギムナジウムではなく、ウィーン工芸学校へと進学する道を選びます。

※ギムナジウム(Gymnasium)…日本でいう「中高一貫校」。

1906年、ウィーン工芸学校を卒業後、純粋芸術を追求するためにウィーン美術アカデミーへと進学しました。しかし、アカデミーの時代遅れで保守的な方針に嫌気がさしたシーレは、工芸学校時代の先輩であり、すでに職人として開業していたグスタフ・クリムトの工房に通い、彼に弟子入りします。

自分と画風が違い、お金もないが熱心な後輩をクリムトは可愛がり、大いに援助しました。クリムトの全面的な援助のおかげで、シーレは1908年に初の個展を開き、その翌年にアカデミーを正式に退校しました。これと同時にアカデミーを退校した仲間たちと「ノイ・クンスト・グルッペ(新たな芸術の集い)」という交流会を設立しました。

クリムトが開いた印象派の展覧会でゴッホやムンクの作品を目の当たりにしたこと、さらにアカデミーの制約から解放されたこともあり、シーレは自由な創作を繰り広げました。さらに、人体の研究の中でアカデミー的にはタブーとされた「死」や「性」にも果敢に挑戦しました。当時、裸体画や性描写に対する社会の抵抗は薄れつつありましたが、それでもなおシーレの作品は過激だとされました。

《死せる母Ⅰ》(1910年、レオポルド美術館所蔵)

出典:MUSEY

1911年、シーレのモデルを務めていた17歳の少女、ヴァリ・ノイツェル(Walburga Neuzel)と同棲するようになると、都会の喧騒を離れてチェコのチェスキー・クルムロフ市へと移住します。しかし、田舎という閉鎖的な環境や、娼婦などがヌードモデルとして家に出入りしていることが住民に知れたことで、町を追い出されるようにウィーンに戻りました。

《赤いブラウスのヴァリー》(1913年、個人蔵)

出典:MUSEY

シーレはウィーン近郊のノイレングバッハで活動しますが、庭でヌードデッサンをしたり、町の子供をモデルにしたりしたことで悪評が絶えませんでした。家出した少女に宿を貸した際には誘拐罪で拘留され、その時に発見された裸体画が押収されることもありました。

ウィーンに戻ったシーレに対してエーディトとアーデレという姉妹が恋をしたため、シーレはヴァリと分かれ、妹のエーディトと結婚しましたが、姉アーデレとの関係も続けていたとされます。

1914年に勃発した第一次世界大戦に際してシーレはオーストリア=ハンガリー帝国軍に徴兵されますが、軍が芸術家を尊重したことで前線勤務には就かず、捕虜収容所の看守を務めつつ制作をつづけました。1918年にクリムトが開いた第49回分離派展で50点以上の作品を出品し一気に注目されたシーレですが、同年10月31日、スペイン風邪により死去しました。

《古い街Ⅲ 緑の中の街》(1917年、ノイエ・ギャラリー所蔵)

出典:MUSEY

エゴン・シーレの作風

エゴン・シーレの作風は生涯を通して一貫しています。ウィーン分離派のクリムトや印象派に影響を受けながらも、独自の画風を追求しました。捻じ曲げられた肉体、グロテスクな色使いなどによって、見た人に直感的な衝撃を与え、その様な表現に重きを置いているということで、今日では表現主義の分野で論じられます。

《ほおずきの実のある自画像》(1912、レオポルド美術館所蔵)

出典:MUSEY

エゴン・シーレの作品

シーレはアカデミーを離脱してからスペイン風邪で死没するまでの10年の間に300にも及ぶ絵画と数百のドローイングを制作しました。また、絵画に留まらず彫刻作品も残しているようです。

死と乙女

出典:MUSEY

《死と乙女》は1914年に描かれた作品です。数あるシーレの作品の中でももっとも複雑な絵画が、縦150cm、横180cmの大きなキャンバスに力強く描かれています。やせ細りボロ布を身につけた女性が死んだ男性に寄り添う場面は、以前からの恋人で会ったヴァリーとの別れを、「死の舞踏」という15世紀のドイツの様式になぞらえて描かれたとされます。

絡み合う二人の少女

出典:MUSEY

《絡み合う二人の少女》は1915年に制作されました。女性のヌードという性的なテーマを取り上げながらも、ボタンの様な目、くすんだ肌、ねじ曲がった身体から「官能的」と評価するのは難しいでしょう。むしろ、シーレはそういった裸体画に対する見方に対し一種の挑戦を挑んでいたのかもしれません。

エゴン・シーレ関連書籍

エゴン・シーレ―ウィーン世紀末を駆け抜けた鬼才 

著者略歴
水沢/勉
1952年横浜生まれ。1978年慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館に学芸員として勤務、現在神奈川県立近代美術館館長として美術館の企画、運営、新しい芸術家の発掘に力を発揮する
出典:Amazon

エゴン・シーレ:傷を負ったナルシス

20世紀初頭のウィーンで活躍し、年長の友人クリムトと共に、つねに現代絵画の旗手として位置づけられるエゴン・シーレ。その先進性・前衛性は、クリムトをはるかに凌駕している。わずか28歳で死去した天才芸術家の全貌を紹介する。

出典:Amazon

タイトルとURLをコピーしました