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伊藤若冲|こだわりの作品を残した京都の絵師

伊藤若冲 人物紹介
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伊藤若冲のプロフィール

伊藤若冲

出典:Wikipedia

名前 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)
国籍 日本
生誕 1716年3月1日
死没 1800年10月27日

伊藤若冲ってどんな人?

若冲は、京都の青物問屋の息子として生まれました。23歳の時に父親の死によって、跡を継いだ若冲ですが、商売やお酒、女性に興味がなく絵を描くことを何よりも一番としていました。

30歳の頃に家業を営みながらも絵を本格的に学び始めた若冲は狩野派に入門しましたが、同一の表現方法に固まることを恐れて独立し、中国画を所蔵する各寺を巡り、模写をはじめます。

やがて、絵に一層のめり込んだ若冲は制作に集中するために家業を弟に譲り、若冲は早くから隠居生活に入り絵を描くことに集中しました。模写を続ける日々の中で、「絵」から学ぶだけでなく「絵の対象」となるものを観察することが肝心であると悟った若冲は庭に鶏を飼い放して、ひたすら観察することで「絵の対象」を思うままに描けるようになりました。

この頃から、若冲は代表作となる「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の制作を始めました。「動植綵絵」は、10年の歳月をかけて制作されたもので、動植物を対象にして全30作からなります。早くから隠居生活を送っていた若冲ですが、完全に世間と関わりを断ち切ったわけではなく、城下町や商業都市で町を治める町年寄を務めたり、市場の再開に尽力していました。

72歳の時に若冲は、京都で発生した大規模の火災である「天明の大火」によって、一切の画材が燃え失せて生活に困った若冲は大阪に拠点を移して、家計のために絵を描き続けました。

しかし、若冲は欲が元々ないこともあり、貧しい生活の中でも悲観的になることはありませんでした。晩年は伏見深草の石峯寺に隠遁し、およそ10年をかけて、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を、住職と義妹の支援によって完成させ、84歳で亡くなりました。

伊藤若冲の作風と代表作品

伊藤若冲の作風

若冲は狩野派を学ぶことから本格的に絵をはじめました。しかし、現存する作品で狩野派の特徴や画法を取り入れたものを探すのは困難とされています。
狩野派を離れてからは、中国の宋元画やそっくりそのまま描く模写、そして見たものをそのまま描く写生へと移行しました。

伊藤若冲の代表作品

群鶏図

群鶏図

出典:Wikipedia

動植物を描いた彩色画「動植綵絵」の30枚にわたる作品の1つである「群鶏図」は、およそ10mほどの大きさがあるは京都・黄檗宗の海宝寺の方丈に描かれた若沖の晩年の作品です。

13羽の鶏は顔料(着色に用いる粉末)を使って描かれており、鶏の精密さ描写と細やかな色彩が若冲が時間をかけて培った「観察力」の成果をまじまじと感じることができます。

樹花鳥獣図屏風

樹花鳥獣図屏風

出典:静岡県立美術館

大きな花が咲く水辺に、実在するもの空想上のもの問わず、鳥と獣が対の関係で描かれています。また色彩も非常に豊かに表現されています。

「樹花鳥獣図屏風」を鑑賞する上で知っておきたいのは「升目描き」という技法です。「升目描き」は、淡墨で縦横1cmの升目を画面全体に作り、その上に濃淡を使い分けた色を塗り重ねてグラデーションに彩色して立体的に描く技法です。若冲自らが編み出した「升目描き」は、「樹花鳥獣図屏風」は1双でおよそ11万を超える数の升目が存在し、若冲の根気強さと作品へのこだわりが感じられます。

伊藤若冲の関連書籍

【本の目次をみる】

序章 市場を逃れて自然を描く―商人から画家へ
第1章 最初から個性的―初期作品
第2章 東アジア花鳥画史のモニュメント―動植綵絵
第3章 単色デザインの斬新さ―水墨画と版画
第4章 最後まで衰えない画力―物好きの晩年

「松下錦鶏図」「紫陽花白鶏図」「動植綵絵」などが、古いものから新しいものへと並べた若冲の作品を、若冲を溺愛している著者の丁寧で愛に溢れた解説がされている入門書です。コラムも多数、収録されており各作品を楽しみながら深く学ぶことができます。

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