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岸田劉生|麗子像を産んだ明治の天才

岸田劉生 人物紹介
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岸田劉生のプロフィール

岸田劉生

出典:Wikipedia

名前 岸田劉生(きしだりゅうせい)
国籍 日本
生誕 1891年6月23日
死没 1929年12月20日

岸田劉生ってどんな人?

岸田劉生は1891年に薬屋の経営する岸田吟香の四男として銀座に生まれました。
中学時代から、独自に絵画を学びはじめた劉生は、父の死をきっかけに、キリスト教に入信しました。このことは、劉生のその後の作品からも影響が垣間みえます。

自分の絵画の力をさらに磨くために、中退した劉生は当時、東京にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り、洋画家、政治家の顔を持つ黒田清輝のもとで教えを受けました。文芸や美術を題材として雑誌「白樺」の美術展を通じてイギリス人の陶芸家バーナード・リーチと出会い、「白樺」に携わる柳宗悦や武者小路実篤とも親交を深めました。

1912年は、詩人であり画家でもある高村光太郎とヒュウザン会を結成し展覧会を行い、劉生は画家としてデビューしました。劉生は、この頃は、作品のほとんどを肖像画で発表していたため劉生の“首狩り”と呼ばれていました。

フランスを中心にひろまったポスト印象派から、ありのままの姿を描くことを主義とする写実的な作風へと変化を遂げた劉生は、娘の麗子をモデルとした代表作品「麗子像」を描きました。他にも劉生の代表作品として風景画の「道路と土手と塀」があります。

1917年に神奈川鵠沼(くげぬま)へと移った劉生は、劉生を慕って同じく鵠沼に移った横堀角次郎や椿貞雄と仲を深めました。5年後の1923年には、関東大震災の影響で京都へ移り、後に鎌倉へと移ります。この期間で劉生は浮世絵、肉筆日本画、日本画のルーツと言われている中国の北宋・南宋および元時代の絵画である宋元画に取り組み、表現の幅を広げました。

はじめての海外旅行を経験した1929年に、劉生は胃潰瘍と尿毒症により38歳の若さで亡くなりました。

岸田劉生の作風と代表作品

岸田劉生の作風

いろんな表現方法に触れて実践をしてきた劉生は、画家としての活動をはじめた頃は、ポスト印象派でしたが、そこから変遷を繰り返して、ありのままを描く写実的な表現をとりいれ、時には自ら「模倣を意識した」というほどにヨーロッパのルネサンスやバロック、ロマン主義などの影響も受けています。国内や近隣の国の芸術表現にも関心があった劉生は紙に描く肉筆浮世絵や中国由来の宋元画にも取り組みました。

岸田劉生の代表作品

道路と土手と塀

道路と土手と塀

出典:鑑賞教育キーワードmap

「道路と土手と塀」は、西洋画の影響から抜け出し「ぢかに自然の質量そのものにぶつかる」ことを考えた劉生が、土や石垣などを細部まで緻密に描く写実的表現に取り組んだものとして有名な作品です。

下部に見える二本の黒く伸びた影は当時、都市開発が進みはじめた様子を表していおり、描かれた坂道はいまでも、東京渋谷に面影を残しています。

麗子微笑

麗子微笑国の重要文化財に指定されている「麗子微笑」は、劉生が30歳のときに10日間ほどで描き上げた代表作品です。劉生の娘・麗子がモデルになっており、小さいころから15〜16歳頃までを描いたものを集めると約70点ほどになります。

「モナリザ」の微笑みをオマージュしたといわれる「麗子微笑」は、劉生が得意として写実を手法として奇妙でありながらもバランスのとれた大きな頭と青果をもつ小さな手で表現されています。

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