レオナルド・ダ=ヴィンチ|最も偉大な「万能の天才」

芸術家紹介
レオナルド・ダ=ヴィンチ

レオナルド・ダ=ヴィンチのプロフィール

出典: Wikipedia

名前 レオナルド・ダ=ヴィンチ(Leonard da Vinci)
国籍 イタリア
生誕 1452
死没 1519(享年67)

レオナルド・ダ=ヴィンチの生涯

レオナルド・ダ=ヴィンチはイタリア・ルネサンスの芸術家であると同時に、様々な学問分野において業績と手稿を残した「万能の天才」です。その関心の領域の広さは、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、天文学、気象学、物理学、力学など……と非常に多岐にわたります。

なお、一般的な呼称は「ダ=ヴィンチ」ですが、これはイタリア語で「ヴィンチ村出身の」ということを意味するため、「レオナルド」と省略する方が適切とされます。

レオナルドは1452年、フィレンツェ共和国郊外のヴィンチ村で公証人の私生児として生まれます。14歳のとき、フィレンツェでもっともすぐれた工房を経営していたアンドレア・デル・ヴェロッキオという画家の下に弟子入りします。この工房では、同じくルネサンスの芸術家として名高いサンドロ・ボッティチェリも修行をしていました。

レオナルドはこの工房で理論・技術ともに優れた才能を発揮し、絵画・彫刻のみならず金属加工、石膏、皮革加工、機械工などを習得しました。レオナルドの優れた絵画技術には逸話が残っており、《キリストの洗礼》をレオナルドとヴェロッキオが共同で制作したとき、レオナルドの腕に感服したヴェロッキオはそれ以降絵画制作を彼に任せるようになったといいます。

《キリストの洗礼》(出典: Wikipedia)

レオナルドは20歳までに芸術家ギルド(聖ルカ組合)からマエストロ(親方)の資格を獲得し、ヴェロッキオの工房から独立して、1480年からは当時フィレンツェで最も強力だったメディチ家の庇護の下活動したとされます。

1482年から1499年の間にはミラノ公国で活動しました。彼の作品として最も有名な《最後の晩餐》もこの時期に描かれています。1499年、第二次イタリア戦争が勃発します。フランス軍からの被害を逃れるため、レオナルドはミラノからヴェネツィアへと逃亡しました。ヴェネツィアでは軍事技師や建築家として雇われ、フランス軍の海上攻撃から街を守るための方法の考案を任されています。

《最後の晩餐》(出典: Wikipedia)

その後再びフィレンツェに戻り、1508年にフィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の大会議室の壁画《アンギアーリの戦い》の政策に携わりますが、これもまた未完のまま放置されてしまいます。このとき大会議室の反対側の壁には、ミケランジェロが《カッシーナの戦い》という壁画の制作を行っており、若きラファエロがこれらの絵画を見て学んでいたとされます。なお、これら二作は現存しておらず、《アンギアーリの戦い》はルーベンスの模写が、《カッシーナの戦い》はサンガッロという画家の模写がもっとも精巧とされます。

《アンギアーリの戦い(模写)》(出典: Wikipedia)

《カッシーナの戦い(模写)》(出典: Wikipedia)

1513年から1516年の間は教皇レオ10世のもとで暮らし、生前の最後の完成作《洗礼者聖ヨハネ》の制作を行います。その後フランス国王フランソワ1世に招かれ、1519年に死没するまでクルーの館で暮らしました。フランソワ1世とは緊密な関係を気づいており、レオナルドはフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったとされます。

アングル《レオナルド・ダ=ヴィンチの死》(出典: salvastyle)

レオナルド・ダ=ヴィンチの作風

レオナルドは「見たことのないものは描かない」ことを信条とし、徹底的なリアリズムを追求しました。その結果、明確な輪郭線を描かないスフマートという手法や空気遠近法といった技術を洗練させていきます。

《岩窟の聖母》(出典: 西洋絵画美術館)

また、解剖学の知識を生かした性格な人体、微妙な差異までも追求した陰影表現、フランドル地方の絵画にならった正確な自然描写といった、リアリズムの追求が生涯なされています。

《ウィトルウィウス的人体解剖図》(出典: Wikipedia)

レオナルド・ダ=ヴィンチの作品

ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)

出典: Wikipedia

日本では《モナ・リザ》の名前で知られるこの絵画は、「世界でもっとも知られた、もっとも見られた」美術作品といわれています。1503年から1506年の間に制作されたとされる板絵で、以下のような点において研究の対象となってきました。

・制作の謎:《モナ・リザ》の歴史は未だ謎に包まれていることが多いです。レオナルドが制作にかけた時間や画家が作品を保有していた期間、そしてフランス王室がどのようにしてこの作品を購入したのか……これらは未だ、歴史の闇のなかにあります。

・様式の新しさ:《モナ・リザ》以前の肖像画には、これほどゆったりとモデルの半身を捉えたものはありません。描かれたモデルの腕や手が枠にぶつかることなく自然に収まり、しかも彫刻のような雰囲気を獲得しています。婦人の後ろにはフランドル地方の風景画に学んだ方法で北イタリアの風景画描かれていますが、その抑制された色彩から感じられる遠近感や荘厳さは、フランドル地方には見られないものです。

・印象的な微笑:《モナ・リザ》が浮かべる微笑について、幾度となく議論が交わされてきました。この微笑に対して、研究者により幅広く解釈がなされており、その幅は人間の知覚を基にした科学的な視点でなすものから、モデルの特定や作品の雰囲気といった作品に立脚してなすものまで、さまざまなものがあります。

受胎告知

出典: アートペディア

《受胎告知》は縦98cm、横217cmの大規模な板に描かれた油彩画です。「受胎告知」とは、新約聖書において大天使ガブリエルがマリアにイエスの妊娠を伝えに来る場面です。ルネサンスのヨーロッパでは多くの画家たちがこの場面を多く描いており、レオナルドはこれを実質的なデビュー作として制作しました。

その後のレオナルドの作品に比べると技術的な未熟さはありますが、色彩的な特徴や写実的な性格さの追求に、彼の制作姿勢が窺えます。例えば、大天使ガブリエルの羽根は金色で描くのが当時では一般的でしたが、彼は現実的な鳥の翼を用いています。加えて背景はガブリエルのマリアの視線の交差する点に消失点を置いた遠近法で描かれています。

レオナルド・ダ=ヴィンチの関連書籍

ゼロからわかる「レオナルド・ダ・ヴィンチ」

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、1452年-1519年に生きたイタリア・ルネサンスを代表する芸術家です。
フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ (Leonardo di ser Piero da Vinci) 。

実は「ダ・ヴィンチ」は「ヴィンチ村出身」であることを意味しており、名前としては「レオナルド」と呼称するのが正しいと言われています。

芸術を追求する過程で、非常に多様な分野を学んでいきます。
音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など…

そうした学習の結果、編み出した数々の偉業は、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿として残っています。決して、大々的に世の中に発表したわけではなく、あくまで”メモ”としてしか残さなかったレオナルド・ダ・ヴィンチ。

「私は無学の人だ」と自称し、学びを追求し続けたのです。

・レオナルド・ダ・ヴィンチの生い立ちは?
・レオナルド・ダ・ヴィンチの作品にはどういうものがあるの?

こうした疑問を解決しながら、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」について学んでいきましょう!

出典:Amazon

ペンブックス1 ダ・ヴィンチ全作品・全解剖

彼はこう言い遺した。
「画家は万能でなければ賞賛に値しない」。
人類の英知の結晶ともいえる膨大な研究は、
ただ「絵画」という表現を完成させるためだけに集約されたのだ。

残された絵画数の定義にはいまだ諸説あるが、
レオナルド作と断定できるのはわずか13点。
「受胎告知」「モナ・リザ」など、
巨人の探究心のすべてが集約された絵画たちを様々な角度から徹底解剖。

さらに、研究のすべてを書き記した膨大な
“手稿”をひも解くことで、
「人間レオナルド」の生身に迫る。

雑誌『Pen』で好評を博した特集の書籍化第1弾。

出典:Amazon

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