雪舟|日本画に絶大な影響を与えた水墨画家

芸術家紹介

雪舟のプロフィール

(出典:Wikipedia)

名前 雪舟
国籍 日本
生誕 1420(応永27)
死没 1502(文亀2)または1506(永正3)

雪舟の生涯

雪舟は備中国(現在の岡山県西部)の武家に生まれ、幼くして臨済宗の寺院に入ります。当時文芸で生計を立てようと思えば寺に入ることが唯一の道であり、さらに彼の生きた室町時代では、禅僧が学問と文芸の分野を担っていました。始めは「拙宗等揚」と名乗っていました。

※禅宗の一派である臨済宗は幕府から庇護を受けており、学問・文芸において活躍していた。文学(五山文学)では絶海中津、義堂周信などが有名。

お仕置きとして柱に縛り付けられた雪舟が涙の跡でネズミを描いた、という逸話があるように、幼いころから画才に長けていたことが窺えます。この才能を見出されて10歳頃に京都の相国寺へ移り、禅の修行を積む傍ら、周文という当時最高の画家の下で絵画を学びました。

しかし、京都で当時流行していた繊細な画風になじめなかった雪舟は、1454年頃に周防国(現在の山口県)に移り、守護大名の大内氏の庇護のもとに雲谷庵という庵を構えます。楚石梵琦(そせきぼんき)という中国の禅僧による「雪舟」と書かれた墨跡を入手したことで、「雪舟」と改号しました。

48歳の時、大内氏の命をうけて遣明船で明へ渡航します。各地を回り、約3年間の周遊の間に本格的な水墨画に触れ、その研究を行いました。とはいっても、彼が興味を抱いたのは明時代の絵画ではなく、宋・元時代の素朴でダイナミックな水墨画だったようです。加えて、中国の自然に大きな感銘を受け、揚子江を下りながら各地の風景を写生してまわったということです。

《四季山水図(山水長巻)》(出典:毛利博物館)

帰国後、雪舟はこの周遊の経験を生かして最晩年まで筆を執り続け、豊後国(現在の大分県)や石見国(現在の島根県西部)、美濃国(現在の岐阜県南部)で活動しました。福井県の天橋立の風景を描いた《天橋立図》には、天橋立だけでなく周辺の寺社もが詳細に描かれています。こうした日本各地の訪問は単なる旅行というよりも、大内氏の軍事・外交政策の一環としての、地理的調査の側面を担っていたのではないか、という意見もあります。

没年に関する確実な記録はありませんが、1506年に87歳で没したとするものが多いようです。彼の存在は、江戸時代に狩野派が雪舟を師と仰ぎ、ゆえに各地の大名が彼の作品を求めたことで神格化されていきました。

雪舟の作風

中国宋・元時代の水墨画の画風を吸収しつつ、それらを自然観察を通して得た写生力に反映させることで、彼独自の画風を確立させました。

《四季花鳥図屏風》左隻(出典:東京国立博物館)

それまでの日本の水墨画はどうしても中国絵画の模倣にとどまっていましたが、彼の全く新しい画風がもたらされたことで、後の日本画壇にも大きな影響を与えました。

雪舟の作品

秋冬山水図(冬景図)

(出典:東京国立博物館)

もともと《夏冬山水》として京都の曼殊院に伝わった《秋景山水》《冬景山水》のひとつです。雪に覆われた断崖が中央にそびえ、その手前では船から降りた人が楼閣へと歩みを進めています。断崖の力強い輪郭線や枯木が冬の厳しさを感じさせます。

天橋立図

(出典:京都国立博物館)

日本三景のひとつ、天橋立を東側から俯瞰的に描いた図です。水々しい墨色と確実に形をとらえる筆致、これらを用いて風景を雄大に組立てる構図は雪舟の優れた技術の最高点を示しているといえます。まさに、彼の画業の集大成と言えるでしょう。

雪舟の関連書籍

もっと知りたい雪舟 生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション)

京都で芽の出なかった、自意識の強い遅咲きの画僧が動乱の胎動期を泳ぎ切り、ついには「画聖」にまつり上げられる……。これが、作品と対峙し、史料やフィールドの研究も長年重ねた著者の率直な雪舟観である。水墨画を極めんと漂泊する天才のイメージからは遠い「人間」雪舟の生涯が、作品とともに生き生きと語られる。

出典:Amazon

雪舟決定版 生誕六〇〇年 (別冊太陽 日本のこころ)

日本美術の最高峰と呼ばれる水墨画の巨匠は、奇想の画家の元祖だった? 最新の研究成果とともに、画家の生涯の軌跡と現存する真筆作品の全貌を鋭い視点で読み解く。

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