フィンセント・ファン・ゴッホ|死後に作品が評価された狂気の印象派画家

フィンセント・ファン・ゴッホ (1)芸術家紹介

フィンセント・ファン・ゴッホのプロフィール

ゴッホ自画像

出典:Wikipedia

名前フィンセント・ファン・ゴッホ
(Vincent van Gogh)
国籍オランダ
生誕1853年3月30日
死没1890年7月29日

フィンセント・ファン・ゴッホの生涯

フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ南部の小さな村、フロート・ズンデルトにて牧師の長男として生まれました。兄弟は、終生彼を支えた弟テオと弟がもう1人、妹が3人いました。

兄弟の中でも感受性が特に強く、かんしゃくを起こしては周りを困らせていたと言われています。

寄宿学校を中退したのち、彼が16歳の時(1869年)、伯父が設立した「グーピル商会」ハーグ支店の店員となりました。
レンブランドやフェルメールなどの画家の作品に触れ、美術に興味を持つようになりました。

23歳の時(1876年)にグーピル商会を解雇され、牧師になるべく猛勉強するも挫折してしまうなど、転職や苦悩を重ねました。
その後、実家からの仕送りに頼る生活や、実家とのトラブルから住居を転々とする日々が続く中でも、デッサンや模写は続けていました。

27歳の頃に絵を本格的に描くことを決意し、弟テオの援助を受けながらの生活しながら、ブリュッセルの芸術学校でレッスンを短期間ながら受けたこともありました。

28歳にエッテンの実家に戻り、田園風景や農夫の姿を描き続けている中で、少しずつ彼特有の太く黒い描線や力強さが表れ始めました。

1882年の年明け(29歳)にハーグに引っ越し、ハーグに住む従兄の画家アントン・モーヴに絵を学び始めました。
しかし、石膏のスケッチを重視すべきという指導を受け入れられず、衝突しました。

さらにハーグで知り合った娼婦と同棲し始めたフィンセントに、モーヴや弟テオすら距離を置くようになりました。

1883年、父の赴任先であったニューネンの実家に戻って絵を描き続けました。

フィンセントが30歳の1885年3月に父が脳卒中で急死しました。
その春に、数年にわたって描き続けた農夫の姿の集大成として、初めての人物画の大作「じゃがいもを食べる人たち」を完成させました。

1885年11月、ベルギーのアントワープ(アントウェルペン)に移住しました。アントワープで美術学校に通ったのち、1886年3月にパリに住む弟テオの所に転がり込みました。

そのころ、パリでは印象派が大ブームでした。
フィンセントもその影響を受けて、印象派や新印象派の画風を取り入れた明るい色彩の絵を描くようになりました。

パリの風景もたくさん描きましたが、モデルを雇うお金がないことから、自画像をパリ滞在の2年半で27点も描いています。

1887年11月、カフェ「ル・タンブラン」にてベルナールらと展覧会を開催し、好評を博すとともに、ポール・ゴーキャンと知り合い、交流が始まりました。

「ひまわり」 ゴッホ ひまわり

出典:Wikipedia

翌1888年、ゴッホ35歳にしてパリから南仏アルルに移りました。
アルルでは、「ひまわり」や「収穫」など名作がたくさん生まれています。
また、同年10月よりアルルにてゴーキャンとの共同生活が始まりました。

同年12月にフィンセントとゴーキャンが口論の末、フィンセントが自らの左耳を切り落とすという事件が起きました。
翌日には「てんかん」の発作を起こし、精神病院にさせられました。

退院後は、耳に包帯をした自画像や「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」を描いています。

「アイリス」

出典:Wikipedia

1889年2月に再び精神病院に収容されたものの、孤独感にさいなまれ、自らの希望で同年5月に民間の療養所に入所しました。
療養所では絵を描くことが許され、「アイリス」や「星月夜」など数々の作品が生まれました。

度々発作が起こっていたので、発作の合間に絵を描いている状態が続く中、弟テオに1890年1月に息子が生まれ、「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて送っていました。

このころから、フィンセントの絵が評価され始めました。

評論家のアルベール・オーリエが「メルキュール・ド・フランス」誌1月号にて、フィンセントをこう評価する評論を掲載されました。
ブリュッセルで開催された「20人展」では、「赤い葡萄畑」が400フラン(現在の約4万円)で売れました。

病状は不安定ながらも、3月に開催された「アンデパンダン展」では、ゴーキャンやモネから高評価を得ました。

同年5月に画家兼精神科医ポール・ガシェをを頼り、新たな静養地・オーヴェル=シュル=オワーズへ向かい、1日1点という驚異的なスピードで制作を続けました。

同年7月、パリのテオ宅を訪れ、一家の困窮を目の当たりにしたことで、自身がテオ家族の負担となっていることを実感し、7月27日にピストル自殺を図りました。
2日後、テオに看取られながら、フィンセントは息を引き取りました。
さらに、弟のテオも、後を追うように、翌年1月に亡くなりました。

フィンセントの死後、テオの妻が1点200~300フラン(約5~8万円)で絵を売却していました。
1900年代に入ると絵の価値がどんどん上がり、1点1万フラン(約300万円)の値が付くものもありました。

1990年には「ガシェ医師の肖像」が約124億円で落札されるなど、ゴッホの作品の人気は不動のものとなっています。

フィンセント・ファン・ゴッホの作風

フィンセントは、1880年代より活躍した「後期印象派」の代表格の1人です。
自画像や静物画などを、精神不安定から生み出される大胆なタッチと鮮やかな色使いで描いています。

初期の作品は、貧しい農民や田園風景を描いた、大人しいタッチや色合いの作品でしたが、浮世絵や印象派の作品に触れて刺激を受け、力強い印象の作品に変わっていきました。

フィンセントは黄色が好きだったこともあり、黄色をたくさん使った絵画が多いのも特徴です。

絵の具を乗せるようにキャンバスに塗るという独特の色の付け方をしていて、立体感が生まれています。

フィンセント・ファン・ゴッホの作品

ひまわり

ゴッホ ひまわり

出典:Wikipedia

1888年8月から1890年1月にかけて、南仏アルルにて「花瓶に挿された向日葵」をモチーフにした絵を7点描いており、うち6点が現存しています。

ゴーキャンのアルル到着を待ちわびながら連作し、ゴーキャンの部屋にひまわりの絵を飾ろうと考えて描かれたそうで、同じ構図のものもあります。

各作品ごとに微妙にタッチが異なり、フィンセントが色彩やタッチの違いを研究していたことがうかがえます。

医師ガシェの肖像

ゴッホ 医師ガシェの肖像

出典:医師ガシェの肖像

「医師ガジェの肖像画」は、1890年、フィンセントが亡くなる約1か月前に描かれた油絵作品です。
最初に描かれたもの、本人により複製されたものと2バージョンがあります。

ガジェは、ゴッホの治療に当たり、最期を看取った医師です。

最初に描かれたバージョンは、1990年、オークションで当時最高落札額の8250万ドル(約124億円)で日本の大昭和製紙名誉会長の斎藤了英氏によって購入されたことでも有名です。

複製されたバージョンは、フランス・パリにあるオルセー美術館に所蔵されています。

フィンセント・ファン・ゴッホの関連書籍

ゴッホ原寸美術館 100% Van Gogh! (100% ART MUSEUM)

ゴッホの名画を迫力の原寸で再現!

《ジャガイモを食べる人々》《アルルの跳ね橋》《夜のカフェ・テラス》《ひまわり》《星月夜》《糸杉》など、初期から晩年まで、ゴッホの代表作を厳選。力強い筆触やマティエール(絵肌)などゴッホ作品の魅力を原寸図版ならではの迫力で再現。また、制作時期による「自画像」や「肖像画」の変貌や、「ジャポニスム(日本趣味)」との関わり、風景画や静物画における様々な挑戦、さらに素描や水彩画など、その画業を通じて試みた技法と様式の多様性・変遷を概観。一般のイメージとは異なる意外な技巧派としての一面も明らかにする充実した内容の画集です。ゴッホ研究の世界的権威である圀府寺司・大阪大学教授による監修。書き下ろし原稿を収載。

出典:Amazon

ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)

「ひまわり」に秘められた意味、そして絶筆の謎とは──?

ファン・ゴッホは、生きることの難しい人間だった。高い理想、激しい気性、有り余る情熱ゆえ、学校にも職場にも教会にもなじめず、やがて画家の道だけが残る。ハーグ派、印象派、浮世絵版画との出会いに導かれ、駆け抜けた37年の短い生涯。その心中には、孤高の理想を憧れの地「日本」に託しつづけた、ユートピアへの儚い希望があった。主要作品をオールカラーで辿り、残された手紙によって画家の人生を浮かび上がらせる決定版。

出典:Amazon

タイトルとURLをコピーしました