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横山大観|日本画の新たな表現を造った男

横山大観 人物紹介
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横山大観のプロフィール

横山大観

出典:Wikipedia

名前 横山大観(よこやまたいかん)
国籍 日本
生誕 1868年11月2日
死没 1958年2月26日

横山大観ってどんな人?

現在の茨城県である常陸国で大観は誕生しました。

学生時代から絵画に興味をもち、鉛筆画から絵画人生をスタートした大観は、父親の反対を押し切って東京美術学校に入学し、思想家で校長を務める岡倉天心、日本画家の橋本雅邦から絵の技術を学びました。大観は岡倉天心を師匠として慕っており、長期間にわたって関係を続けました。

後に、岡倉天心が立ち上げた日本美術院に参加した大観は、岡倉天心の門下で日本画家である菱田春草と西洋画の研究を重ねて没線描表を確立しましたが、当時の日本では受け入れられなかったため、勝負の場所を海外に移すことを考えてインドに外遊、翌年渡米し高い評価を獲得し、日本でも徐々に評価を高めました。

上野池之端に自宅を構えて、精力的に制作を続けた大観は、自らの地位を不動のものとして、朝日文化賞受賞、帝国美術会への加入など功績を築きました。晩年は、3度目の結婚相手である静子と過ごし、自宅にて89歳で亡くなりました。

横山大観の作風と代表作品

横山大観の作風

大観の作風は、没線画法(ぼっせんびょうほう)は上記でも紹介したように菱田春草との西洋画の研究を重ねて編み出した技法を用いた描かれました。
もともと、大観が師匠と仰ぐ岡倉天心に「空気を絵で表現する方法はないか」の一言が発端でできた没線画法は、輪郭を線で描かず、墨や絵画を面として描き
色彩だけで濃淡を使い分けて、空気や光線を表現しました。

しかし、この技法は当時の日本では受け入れられず朦朧体(もうろうたい)とからかわれることがほとんどで海外から高い評価を得たのちに日本でも認められるようになりました。

横山大観の代表作品

屈原

屈原

東京美術学校から追い出されて、日本美術院を創立した頃の岡倉天心をモデルに中国戦国時代の楚の政治家「屈原」と重ね合わせた作品です。

屈原は、秦の張儀の謀略に気づき、楚の王である懐王に助言をするが受け入れられず、絶望から入水自殺した詩人で、大観は岡倉天心をその時の岡倉天心をうまく表現したと言えます。

無我

無我

出典:足立美術館

禅的な悟りの境地にある無心の領域を川辺に立つ子供で表現した「無我」は大観が29歳のときの代表作です。「無我」は全部で3点あり、内1点は島根県の足立美術館がコレクションとして所蔵しています。

【足立美術館】アクセス・みどころ・割引情報・カフェ
足立美術館の基本情報 住所 島根県安来市古川町320 最寄駅 安来駅 営業時間 夏季:4月-9月 9:00〜17:30 冬季:10月-3月 9:00〜17:00 定休日 年中無休 ...

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はじめに 国民画家・大観の誕生
第1章 「大観」の誕生‐画家の道へ―明治元年(1868)~明治30年(1897)(0~29歳)
第2章 苦難の道のり‐日本美術院の成立と衰退、五浦へ―明治31年(1898)~大正2年(1913)(30~45歳)
第3章 在野における地位の確立‐日本美術院の再興―大正3年(1914)~昭和11年(1936)(46~68歳)
第4章 戦争の時代にあって‐深まる国家との結びつき―昭和12年(1937)~昭和20年(1945)(69~77歳)
第5章 円熟の境地‐描き続けた人生―昭和21年(1946)~昭和33年(1958)(78~89歳)
総論 大観芸術の特性

大観の生誕150年目に出版された本書は、オールカラーで大観の代表作を東京藝術大学大学美術館准教授、東京国立近代美術館主任研究員、学芸員の三者が、大観の生涯と作品を解説をする一冊です。

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